悲惨さを伝える意味とは

f:id:el-el:20210715231044j:plain

悲惨さを伝える意味とは?
 
夏も近づく八十八夜。
といってもだいぶ過ぎてしまいました。
終戦の夏が近づくと、テレビなどは戦争をよく取り上げるます。
 
先日、沖縄では6月23日には「慰霊の日」でした。
4月1日からアメリカ軍が沖縄本島へ上陸し、戦闘を開始。6月22日頃、司令部が自決し戦闘終了。通知されなかった兵士たちは抵抗をつづけ・・・
 
という沖縄戦のことも「慰霊の日」前後で多く取り上げられていたように感じます。
 
また8月が近づけば風物詩のように原爆、終戦・・・と、その悲惨さを伝える報道にあふれることでしょう。
ここで違和感を感じるのは、「その悲惨さを伝える」ことに執着している点です。
 
戦争のつらさ、苦しさ、悲惨さ、惨たらしさ・・・
 
そのどれもはもちろん語られる必要はあるでしょう。
ただ、その後に続く科白の中には、
 
「戦争を繰り返してはいけない」
 
というのです。
大変共感します。人類が調和し、共存する中で「戦争」がもたらす代償はあまりにも大きすぎるでしょう。
 
でも、「悲惨さ」を語り、そして語り継ぎ、議論するだけでは根本がごっそり抜け落ちてしまっているため、戦争を繰り返さないための議論として、議論すべき要点が足りないと思うのです。
 
それは「なぜこの戦争が起きたのか?」という事。
そして「なぜ戦時下において、その悲惨さが発生したのか」という事。
 
この国は「負け方」を学んでいません。
太平洋戦争で完膚なきまでに負けたにも関わらず、その痛みを国家という組織に落とし込むことができていないと思うのです。
その後の高度成長期、バブル経済に代表されるまやかしのような成功を体験してしまったことも、「負け方」を学ぶ機会を失った理由のひとつでしょう。
 
沖縄戦での地獄、そして広島、長崎に続く原爆投下。
この流れを回避し、被害を最小限に抑えた負け方というのもあったと思うです。
 
時代は進み、
まもなくオリンピックを開催しようとしています。
ネット界隈では「インパール作戦」と揶揄されています。僕もこのたとえに共感しています。
コロナ禍でのオリンピック開催は大きな代償を背負う事になるでしょう。
だから多くの人が反対しているのだと思っています。
 
やっぱりこの国は何も学んでいないのです。
この感染症の流行はすでに負け戦です。だからこそ被害を最小限に抑えた「負け方」があるはずです。
 
まん延防止法、緊急事態宣言。
これらは問題を先延ばしにするだけで、解決には至りません。
オリンピックを中止し、ワクチン接種を確実に行い、デルタ株の流行もあるが、一旦最小限まで抑えることが今回の負け方ではないでしょうか。
 
「悲惨さ」だけを語っていても、未来は作れません。
悲惨さを最小限にとどめる負け方を議論し、実行しなければ同じことを繰り返すだけです。
負け戦になることが明確であるのに、「勝てる」と言う人はもはやなんらかの新興宗教に入信した信者のようにも見えます。
 
悲惨さを語るのであれば、負け方を議論すべきです。