言葉への甘え

 
言葉への甘え。
 
もうずーっと気になっている言葉がある。
「多様性」。
ずいぶんと都合のいい言葉を持ち込んできたな、と思っていたら、あれよあれよという間に言葉だけが社会に浸透していった。
 
そう、言葉だけ。
 
一番違和感を感じたのは森さんの発言に対する社会の反応。
「女性がいると会議が長くなる」
 
ぼくは「あーそうなの」ってという軽い感じで受け流していたけれど、社会はそうではなかった。
 
すると会長を辞め、女性が会長になった。
 
ほんとうにバカだと思った。
 
「多様性」という定義を誰が決めているのか知らないけれど、
例えば以下のように定義してみた。
 
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互いを受け入れ、価値観の違いを受け入れ、融合させ、上乗せし、アイディアを出しあう。
そして、あらゆる個性と個性が混ざりあい、他者を受容し、受け入れ、発想を高めあう。
多様性とは、こうした状況や文化、精神の在り方のこと。
マイノリティもマジョリティも、互いを受け入れ合って、何も否定しない。
かつ、受け入れ、受容し、アイディアを上乗せして未知の発想にたどり着く。
そしてイノベーションを作り出す。
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こんなことなのかな。と思っている。
 
であれば、森さんの発言は「多様性」の中の一つとして、
頭の固いじじい、という一つのカテゴリーに含め、受け入れる必要があったのではなかろうか?
 
それに反して、森さんの発言を受容しない社会は「多様性」という言葉を使うのには未熟すぎるとも判断できてしまう。
 
さらに、どうゆう流れか知らないが、女性を会長に据えるという行為。
パフォーマンスならやめておいたほうがいいと思う。
適材適所という考えで選任していてくれるものだと信じたい。
 
あの時、森さんはこう発言しておくべきだった。
「多様性という言葉があるように、私のような頭の固いじじいの存在も受け入れ、受容し、アイデアを上乗せして未知の発想に到達できる社会であってほしい」
と。
 
ここまでは1つの事例であるが、さまざまな部分でこの「多様性」という言葉に対する「甘え」が見え隠れしている。
 
言葉とは、かくも便利である。
概念を所有し、いかようなイメージも髣髴とさせる力がある。
 
ただ、その言葉への甘えについて僕は恐ろしさを感じる。
 
かつて戦争に邁進した時代も、言葉の力を大いに利用してきた。
言葉が独り歩きし、ロゴスを持ってしまい、いつの間にかそれがエートスになってしまう。
 
「多様性」という言葉はすでにそうなっているのだろう。
先に挙げた事例も「多様性」という言葉に「正義」という化けの皮をかぶせ、頑固なじじいを差別している。
と解釈できる。
 
ジジイも、ババアも、若造もペテン師も、ハッカーも、
みんな楽しく暮らせる社会をつくろうとしてるものだと思っていたが、そうでもないらしい。
 
一部の正義を言語というエートスで推し進め、また都合のいい世界を作り出そうとしているだけだ。
 
多様性をナめてると痛い目にあうよ。