具志堅京子「南洋浜千鳥」
具志堅京子の唄う「南洋浜千鳥」にはまり数ヶ月。
歌詞の解読を試みた。
意訳ではあるが、1~4まで確認しよう。
1、浜で野宿をしながら旅をし、草葉を枕にする、寝ても忘れられない、両親のこと
2、宿で目覚め、枕をそばたてて、昔のことを思い出した、こんなにも夜が辛かろうか
3、島を離れていても、照らしてくれる月は一つしかない、あの人も今夜の月をどこかで眺めていることだろう
4、柴木を植えておくので、たまには戻っておいでよ、
真竹を植えておくので、またもどっておいでよ
内容をまとめると
旅にでてホームシックになった少年が涙しながら詠んだ詩のように見え、よんでてちょっと恥ずかしい・・・
でも、この唄のこの短い詩の中で時空を越えてしまうところにあるように思える。
1~3番まではホームシックボーイがしとしと泣きながら寂しさに明け暮れる詩であるが、さて3番で「渡海(とぅけ)や隔(ひ)じゃみてぃん照(てぃ)る月(ちち)やひとぅち彼処(あま)ん眺みゆら今宵(きゆ)ぬ空(すら)や」と唄われる。
あの人も月を眺めているだろう、と言われ、さて4番はというとなにやら旅の話ではなくなってしまい。木を植えるだ、竹を植えるだと言っている。
なんの事かと考えてみれば、
あの人とは母のことであろうし、旅にでた少年が見た月から母が見た月へ、そして母の気持ちへと時空が移り変わってしまうのだ。
それを月という媒介者を用いて、少年→月→母という場面転換が行われている。
私も沖縄の浜辺で月を見たことがある。ちょうど満月の近くだったのだろうか、月明かりが海に落ち、一すじの道が海の上に現れていた。歩いていければ何処に繋がっているのだろうか。
この唄を詠んだ人も、そんなことを月明かり照らす海に思いを馳せたのかもしれない。
あの月をみた僕と母、それが道となって現われ、感傷的な彼はその道が我が家へと繋がっているようにみえたのだろう。
なんだかとっても詠んでて恥ずかしい唄であるが、こんなふうに人間と宇宙がつながり、センチメンタルを描かれてしまうと、こんなにも美しく聴こえるのかと感心してしまった。