御神体の色々<芋煮篇>

 

八百万の神という言葉の通り、日本に限って言えば、それはそれは富士の頂上から便所の中まで神がいる。こんなにもいらっしゃっていいのだろうかと申し訳ない気持ちにさせられることもしばしば。

 

さて、今回は山形における大芋煮会というものを取り上げさせていただきます。

 

この大芋煮会とは平成元年に第1回目を開催し、今年第28回目を数える山形県民の参加が義務付けられたイベントである。実は昭和64年からの開催を計画していたが、昭和天皇の入院後に崩御ということで自粛という形をとっていたようだ。これは幻の第0回といわれ、この大芋煮会の神秘性はこれによって裏付けられている。

 

今年は重機(ヤンマー協力)への愛をアピールしており、潤滑油には食用バターを用いているという。食用油、サラダ油などを試し、苦節28年の結果が食用バターであるという。う~む、「食用」とは一体どうゆうことか、私はこのかた食用「ではない」バターというものを聞いたことが無い。バターとは食用以外にどのような使い道があったのだろうか。バター犬という言葉を聞いたことがあるが・・・

まあよい。

 

私はうかつにも知らなかったことがある。

実はこの大芋煮会に使われる鍋というのは、普段は街角でいつでも見られる状態になっているということだ。

 

大理石の上に鎮座し、その役割を待つ御姿は鍋神様そのものである。

「おお、鍋よ」とは山形県民にとって「おお、神よ」という意味であり、県民がこの大芋煮会のことを誇らしげに喋る理由はここにあったのかと、やっと納得できた。

また、この鍋の名を「三代目 鍋太郎」と呼ぶそうだ。なんと勇壮な名前だろうか。赤褌を締めた筋骨隆々な男を想像させられる。

私はこの事実を知ったとき、歓喜のあまり咽び泣き、自宅にある行平鍋に頬ずりをした。

 

しかし、これはまだ序の口であった。私はさらに驚愕の事実を知った。いや、うすうす感じてはいたのだ。

J soul Brothesが三代目だというように、それはもちろん一代目、二代目がいるものだ。

私は恐る恐る検索をしてみた。

www.kankou.yamagata.yamagata.jp

 

あった。

これまた、なんと勇壮な姿だろうか。

一代目なべ太郎、という響き、これが襲名性だったとは知らなかった。

一代目の周囲にはストーンヘンジのようにサークル状の巨石があしらわれている。これは山形県民の意識の古層に続く縄文人としての記憶だろう。また、取手の隙間から唐松観音のお堂がみえる。まさかビスタまで計算され、この位置に配置されているとは驚きだ。

 

山形県民にとっての大芋煮会とは神事であった。

御神体「鍋太郎」を取り巻く山形県民のあり方を見直し、私は感激したのだった。

鍋から分け与えられる芋煮とは神の身体を分け与えることでもあったのだ。県民はこの与えられた神の一部を取り込むことで無病息災を得るという仕組みである。これは一代目「なべ太郎」が唐松観音とのビスタ上に配置されたことから考えると、観音と聖母マリアとの繋がりもわかりやすい。血としてのワイン、肉としてのパン。これは山形では血としての汁、肉としての芋、と解釈すればその関係性は容易に見えてくる。

 

汝、汁をすすれ。

 

私は今までこの大芋煮会をバカにしていたが、このような現代に於ける鍋神信仰であったとは知らなかった。

私は反省のために、高野山へ行き授戒の儀式に参加しなければならないと思った。