勤労の美学

 

勤労の美学

 

と、書いては見たものの、その字面にはどこか戦時中の雰囲気をかもしだしている。

 

働かぬもの喰うべからず

 

とも言うが、まぁ我々日本国民には納税、教育の義務についで、勤労も含まれるので、喰うな、喰えだの勝手にしたらよろしい。

しかし、まぁこうした勤労というよりも、労働を美化するのは聞いてて虫唾が走る。

勤労ならば、利己的にても他利的にでも勝手に心身を滅却し賃金を稼げばよろしい、と思わせてくれるのだけれども。とたん、労働となるとどこか機械的になり、フリッツ・ラングの「メトロポリス」を思わせられる。あの映画で労働者の愚弄に気づく人が何人いるだろうか・・・

 

ある製菓メーカーの社長の言葉

「私の会社がやっていることを真似する人がたくさんいる。でも私は彼らの10倍はたらく」

という言葉をある人は私の前で、こんな言葉を聞いたと感慨深く説法してくれた。

「立派な人だろう」

というのだけれども、私にはなぜそれが立派なことなのかわからなかった。

金儲けが立派なことだといっているのか。

一生懸命、労働することが立派なのか。

私にはわからない。

 

さて、そもそもそれを「立派な」という形容詞で修飾できる要素なのだろうか。

 

私にはその話が資本主義の末期の話のように聞こえた。

資本を増殖させてきた近代、それは成長と発展がいつまでも続くと考えてきた。それを人間の精神の成長と勘違いをし、同一平面上で考えてきた、長い誤解と誤謬の世界だったのではないか。

人間の成長は決して資本の成長ではない。

そんなものを同じ平面上で考えること自体おかしいが、いまだにそうである。

それが労働を美化してしまったのではなかろうか。

 

労働とは孤独である。

そこに他者の精神性など入り込めない。

 

押し付けるな!