夢がたくさんあると幸せ=「希望病」
東大赤門前での事件。
世間の一部は、自己肯定感が低い若者を問題視しているらしい。
そんな中、
とある高校で自己肯定感を身に着ける講演会が行われたと聞いた。
どんな結論に導くのかな?と思っていたら
「たくさん夢を持ってください。」
???
話者の口から飛び出る言葉のほとんどが空虚。
中身もなく、聞いていて恥ずかしくなるほど。
事件増えますよ。
今回の事件場合も結局、世間の価値観が一様だったから発生したのではないでしょうか?
要は、彼の居場所はどこにもなかったのです。
だから自分自身消えてしまおうとおもったのではないでしょうか。
でも、寂しい。生きたい。
だから人を傷つけてしまったのではないでしょうか。
彼の人生を想像するだけで、辛くなります。
多様性って言うけど、結局ジェンダーとか障碍だけの話に落ち着いてしまっている。
まぁ、それも頗る中途半端なのは否めませんが…
東大に入らなくても良い人生。
医者にならなくても良い人生。
がんばる必要のない人生。
そもそも夢なども持たないほうが幸せだったのかもしれません。
もし多様性を推すならば、
「夢なんか持たなくていいです。」
と上記のように、先の講演会ではこう結論に導いてもよかったのではないでしょうか?
夢がないことを認めてあげる。
そんな世界があれば彼ら/彼女らは救われたのかもしれません。
夢なんて所詮荷物のひとつです。ない方が身軽なこともあるでしょう。
そんな価値観も市民権を得ても良い時期だと思います。
もし誰かに持たされた夢ならば、早く捨てよう!
って考え方もありですよね。
そんな夢を大事に持ってると腐って臭うと思います。
もちろんそれだけではなく、
「明日の朝、パンにはバターを塗って食べる」
とか、
「明日はハンカチをもって出かける」
とか、小さな小さな夢も、もちろん大きな大きな夢も認められる日本になれると良いですね。
まぁ、夢に大きいも小さいもないんですがね。
そんな私は最近、
小さな小さな共同体を夢見て、ほくそ笑んでます。
余談ですが、
自己肯定感が低いことを若者である彼ら自身の問題であるかのように言う(報道)するのはやめてほしい。
また、彼らを育てた親や教育が「クソ」だということをまず認めてほしいです。
そのうえで、なぜこんな「クソ」な状況になったのか分析し、対処方法を検討してほしい。
「前提条件」が全く違っています。
正しさはどこにあるか?
正しいことは意外な場所にある。
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昨日、NHKの「世界はほしいモノにあふれてる」の録画を見ていた。
全然興味がないんだけど、キャンプを特集していた。
その中でオーストラリア人がキャンプについて語っていた。
「台所を片付ける必要がないから良い」と。
そりゃそうだよな、と思った。
キャンプに台所をもっていくバカもいないし、
キャンプに行った先に台所はないのだろう。
あまりに「正しいこと」を言っているので関心してしまった。
そのあともアイスランド人がスキーをしていて、
「山から海に向かって滑ることができ、とても気持ちが良い」と言っていた。
映像を観ると、確かに「山」と「海」が一体となっていた。
気持ち良いかどうかは、滑ってるアイスランド人の主観だけど、
こんな映像を見せられたら、確かに山から海へ向かって滑ることができるのは明白。
これまた、あまりにも「正しいこと」を言っているので関心してしまった。
こんなにも「正しいこと」を連呼する番組は久しぶりで、
全然興味のないキャンプの話題をしっかりと観てしまった。
本当に興味がないんだけど、ゲストのスノーピークの代表取締役についても調べてしまったし、スノーピークが新潟の会社だというのも調べてしまった。
ちなみに、薪割り体験もできるようで、その場所を「Maki Bar」というそうです。
公平な機会均等法の不変性
「公平」とはどういった意味か?
パラリンピックを楽しんでいる方には水を差すような話ですが・・・
義手、義足の技術革新が目まぐるしいと聞いている。
それによる記録の向上も一方ではあるようだ。
ただ、その技術は世界共通で進歩していることなのでしょうか?
もちろん、技術革新は良いことだとは思いますが、
世界大会に属する競技大会でもあるので、そういった高い技術が詰め込まれた義手義足を手に入れられる国がそうそういくつもあるとは思えないのです。
そんななかで、技術が進んでいない国に所属する選手は、参加したくてもあきらめてしまう方もいるのではないでしょうか?
また、JPCのHPを参照すると下記のように記載されている。
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※IPC発表の英語表記は「Equality」でありその一般的な和訳は「平等」ですが、「平等」な状況を生むには、多様な価値感や個性に即した「公平」な機会の担保が不可欠です。そしてそのことを気づかせてくれるのがパラリンピックやパラアスリートの力である、という点を強調するため、IPC承認の下、あえて「公平」としています。
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ここでいう「『公平』な機会の担保」とは何か。
それは捉えようによっては、技術の無い国を浮き彫りにします、という表現を伴ったIPCの表明とも聞こえかねない。
障碍を持った方が豊かな暮らしをできることはとても良いことだと思いますが、ことIPCが掲げる象徴の一つに「公平」という価値を掲げている点について頗る懸念を抱きました。
もしここで「公平」を適正に判断するのであれば、技術レベルとして低い方に合わせることが「公平」になるかと考えます。
そのような公平性をもちいれば、それこそ義手義足についての世界全体で見た時の技術はこの程度なのか、とも考える機会になるでしょうし、さらには各国のレベルの違いからその技術格差をどのように無くしていくかといったもっと幅広い視点で問題をとらえることができる良い機会になると思います。
IPCが掲げる「Equality(平等・公平)」とは一体なんなのか私には理解が及びませんでした。
そして、この問題の根には近代以前の宗主国と従属国の関係性がどこか残っているように感じてしまいました。
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こういった問題があると考えているのですが、実際に障碍をお持ちの方はどのように考えているかも気になります。
最後に大きなお世話ですが、
もし問題を感じているのであれば、お国も世界も多様性を叫んでいるわけなので、大手を振って、大いに主張すべきとも思います。